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献体40年におもう

 

篤志解剖全国連合会
第十代会長 佐藤 達夫

 

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解剖学はもとより医学全体についても、ファブリカ(人体構造論)が出版された1543年を境にして、ヴェサリウス以前とヴェサリウス以後とが区別されよう。もちろん彼以前にも、すでに13世紀ごろからヨーロッパの大学では解剖が行われており、ボローニャ大学では15世紀のはじめに解剖示説がカリキュラムに採用されていたという。示説とは言っても実情は腑分けであり、一段高い席に陣取った長袖姿の教授がラテン語で書かれたガレノス(129〜199)の教科書を朗読する一方で、身分の低い助手が黙々と解剖をつづけ、彼よりもすこし学のある第一助手が指示棒で各部を示している、という図版が残されている。これら3人が分担した役割をヴェサリウスは一人で兼ね、自分の手で解剖して自分の眼で観察したものを、自分の言葉で説明している様子がファブリカの扉絵に描かれている。これは、近代的な自然科学の研究態度にほかならないし、そして現在の解剖学実習に通じるところである。
しかし観察の重要性を強調したヴェサリウスその人が、観察の機会が少なかったのは皮肉である。遺体の供給源を刑死者に頼り、時には盗掘さえ辞さなかったことが、ファブリカに用いられた装飾文字に死体盗人のグループが描かれていることから明らかである。
ヴェサリウス以後、解剖学が急激に隆盛になるにつれ、解剖材料の需要が爆発的に高まり、いきおい墓場に供給源を求める者が出たことは無理からぬところであった。この状態が嵩じれば,プロの死体斡旋人が出現しても不思議ではない。1829年には、エジンバラで行旅人を絞め殺し医学校に売っていた下宿屋の使用人が、その廉で処刑されるに至った。そして、この事件を契機として1832年英国に解剖法Anatomy Actが制定され、遺体供給は合法化された。わが国においても約100年後に、死体解剖保存法(1949)が制定されている。
1960年頃からの解剖体不足と献体運動の興隆についてはくだくだしく述べる必要もあるまい。解剖と解剖体供給に視点を据えれば、解剖が許されていなかった第1期、解剖は許されていたが遺体の入手が困難であった第2期、遺体の入手が合法化された第3期、そして遺体供給が生前の自分の意志に基づいて行われる献体のはじまりという第4期、の計4期に区分することができるだろう。私はさらに第5期を加えたい。それは1982年の文部大臣感謝状贈呈の創設ならびに83年の献体法制定以後である。献体ならびに献体者の人権が、そして医学教育における献体の意義が一般に認知され、いわば献体に血が通ったのである。
解体新書の出版が1774年、ファブリカに遅れること200年余、わが国の近代医学は出発点で西欧にそれだけ遅れをとっている。しかし今や、実質的に追いつくとともに、献体においては、むしろ追い越したと考えてもよいだろう。1955年以降の献体運動を推進した諸先輩に心から敬意を表したい。

 

 

 

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